名探偵は本当にいた?伝説の探偵・岩崎三郎とは

岩井三郎氏とは、日本でもっとも古いとされる探偵事務所「岩井三郎事務所」(現在は株式会社ミリオン資料サービスに社名変更)を立ち上げた人物です。

主に活躍したのは明治~大正時代にかけてでしたが、解決に導いた事件の中には国や政府を揺るがす程の巨大なものまであります。

おそらく、日本で名の知られている探偵の中で、唯一フィクションの世界とほとんど差異の無い「本物の名探偵」です。まずは岩井三郎の来歴から見ていくことにしましょう。

元スパイ摘発の警視

岩井三郎は1865年に生まれました。生まれつき正義感が強い人物であったとされ、警察官を志して警視庁に入庁。その後30歳になるまでに警視にまで上り詰め、日露戦争時のスパイ摘発活動で活躍しました。

そんな岩井氏が警察を辞めて、私立探偵を志す切っ掛けを生んだがの、30歳を過ぎた頃起きたある容疑者の追跡劇だったとされています。

岩井氏はある事件の容疑者を追いかけて日本中を飛び回っていましたが、容疑者が北海道に逃げ込んでしまい、管轄の違いにより捜査を強制的に中止させられてしまいました。

現在では北海道も警視庁の管轄なのですが、当時の北海道は警察を含めた官公庁全てが独自に機能しており、本庁の警察官といえども手出しは出来なかったのです。

普通ならここで諦めるものですが、岩井氏は捜査を邪魔されたことに憤慨し、権力に縛られず、より自由な立場で操作が行える私立探偵の道を志したのです。

さらにもう一つ、当時の岩井市が私立探偵を志した理由の一つに、当時の諸外国の私立探偵の活躍ぶりがありました。

大正期ともなると、ミステリ作品を中心に私立探偵がもてはやされる様になっていました。その中には、海外で活躍する本物の探偵達の姿が描かれることもあり、一般市民の間からは警察官よりも人気を博していたのです。

そして、同じように海外の探偵たちの姿を見た岩井氏は、何者にも捕らわれない探偵の姿に自由を見たのかもしれません。岩井三郎の様に、能力や向上心が高い人間ほど、権力や組織などの枠組みを障害とみなす傾向があるものです。

日本発の私立探偵事務所「岩井三郎事務所」の設立

探偵を志した岩井三郎の勢いは止まりませんでした。

30歳という働き盛りのエリート警察官が辞職し、探偵を始めると言い出したのには周囲は戸惑ったでしょう。しかし、こうと決めたら極端に視野が狭くなる性格である岩井三郎はおそらく家族や周囲の反対を押し切ってエリートコースから抜け出たものと思われます。

警察を辞めた後、岩井三郎は海外の探偵達の活動を参考に探偵事務所の設立を目指しました。

実は当時、日本には「探偵」と言われる人々はいても、現在の様な民間調査会社の姿をしていた訳ではありません。一説によれば、企業間のスパイ活動などを主軸に恐喝などを繰り返す犯罪者というイメージが強かったそうです。

一方、岩井三郎氏は警察出身者であり、探偵としてやりたい事が「組織に捕らわれない自由な捜査活動」でした。そのため、日本の既存の探偵ではなく、アメリカのピンカートン探偵社などを参考に警察的捜査を主軸とした探偵社の設立を目指したと考えられます。

その結果、1895年、東京と日本橋に日本発となる私立探偵事務所「岩井三郎事務所」を設立。警察とのコネクションやスパイ摘発でつちかった内定調査の技術を生かし、数々の難事件を解決することになるのです。

シーメンス事件

岩井三郎の最も代表的な事件は、やはり「シーメンス事件」です。

現在の私達からすると、あまり馴染みの無い事件名です。しかし、かつてはあのロッキード事件と同じ位有名で、歴史や社会史の教科書に載るほどの大事件でした。

シーメンス事件はドイツのシーメンス社からの贈賄事件(ワイロ)からスタートした一大事件でした。この件には、日本の戦艦として有名な「金剛」の発注にまつわるワイロまでも絡み、最終的には当時の第一次山本内閣が総辞職にまで追い込まれたのです。

そして、この事件の裏で活躍したのが岩井三郎でした。

一説によれば、岩井三郎は警察からの依頼を受けて内定調査を進め、事件の証拠収集に努めたと言わています。

当時の新聞でも岩井三郎の名は大きく取り上げられ、世間にその名を轟かした最初の事件とされています。

花王歯磨密造事件

岩井三郎が解決した事件の一つに「花王歯磨密造事件」が上げられます。

ただ、この事件についての資料は殆ど残っていません。今後、岩井三郎氏への研究が進める上では、この事件についての資料を集めることが先決です。

古河炭鉱詐欺事件

古河炭鉱詐欺事件も岩井三郎が解決した事件として有名です。

ただ、この事件の詳細な資料も現在発見できていません

古河炭鉱といえば、足尾銅山で有名な古河グループの所有する福井県の炭鉱です。

また、炭鉱詐欺というと、架空の炭鉱の売買取引を持ち掛けて詐欺を仕掛ける古典的な手口ですので、この手の事件に岩井三郎が関わったのでしょう。

元満州馬賊・伊達順之助殺人事件

岩井三郎の事件の中でも一風変わったものとして、伊達政宗で有名であった伊達家の子息である伊達準之助が殺人罪に問われた際、その正当防衛を成立させ無罪判決に終わらせたというものがあります。

伊達正宗といえば奥州(当時の東北地方)筆頭と呼ばれる豪傑ですが、その血を引いていた伊達準之助も相当の荒くれものであったと言われます。

1909年5月13日に東京都赤石町の路上で不良同士の縄張り争いで拳銃を用いて相手を射殺してしまい、地方裁判所で懲役12年の判決を言い渡されてしまいます。

しかし、伊達家お抱えの弁護士が岩井三郎に依頼し、3か月に渡る調査を行った結果、正当防衛が成立。大審院の差し戻しという逆転劇によって執行猶予付きの釈放が許されたのです。

この事件によって、岩崎三郎の名は日本中に轟き、各界の華族や財政人にも注目される様になったと言われます。

早川徳次

日本を代表する総合家電メーカーとして有名なシャープですが、会社を創業した早川徳治は丁稚奉公から学んだ金属加工技術から発明を繰り返した「日本の発明王」としても有名です。

その早川徳治の元に、探偵である岩井三郎が調査のため訪れたという記述が残されています。

当時、早川徳治はまだ22歳。結婚し自身の会社を設立した頃であり、まだまだその名前も世間には知られていませんでした。そんな徳治の元に岩井三郎が現れて大変驚いたと記録に残されています。

当時の岩井三郎はシーメンス事件や伊達家の事件で名が知れ渡っており、新聞にも良く出ていたので、徳治でなくともその名を知らない人間は居ませんでした。

そんな岩井が何故家に訪れたのか?

不信に思っていると、後日訪れた岩井三郎が、後徳治が丁稚奉公に出される前に生き別れた異父姉の江木欣々からの依頼で自分のことを探していたと告げました。その結果、徳治は生き別れの異父兄弟と再会を果たしたのです。

まとめ

岩井三郎に関する逸話は事欠かず、探偵を知る上ではとても重要な人物です。

今後の探偵業界にも、もしかしたら岩井三郎の様な名探偵が現れるかもしれません。

そんな淡い期待を込めながら、今後も岩井三郎に関する調査が進みしだい、記事を提供していこうと思います。